我々をしばる3つの縄
不思議なもので、我々日本人は自分でこしらえた縄でもって自分を縛るのがすきなようだ。 地方において職務を遂行するにあたり常に感じるのは自作自演の多さである。
今回はその3つの縄について考えたいと思う。
血縁
まず第一の縄は生まれた時から死ぬ時まで切れない縄である親子の縁、親類の縁である「血縁」である。
血縁とは「(親子、兄弟など)血のつながりがある関係。血筋のことをいう。」
日本においては血筋というものは非常に重要視され、「誰それの親類、子孫」という釣り書はまず真っ先のその人を知るための指標とされる。 血筋とは本人の思う通りにならない生まれ持った資産でもあるし負債でもある。
それにゆえに損も得もする。だから「自分はそうすまい」と思っても血筋であったり血を分けた他人に対して甘い目で見てしまうのである。
これが血縁関係の内側で行われているのならば構わないのだが、そうはならないのが日本人の悲しい性である。
地縁
地方に根ざした産業、企業ほど地縁により辛酸も恩恵も受けているのはあるまい。
地縁とはまさに「何代前からここに住んでいる」という類の自己ではなく父母やそのまた父母の妥協の産物の他ならない。「どこそこ出身だから仲間」という意識はまずまっさきに棄てなければならないものであるが、そうはいかない。 なぜなら官公庁においては「地方へカネを落とす」ことも大きな仕事の一つだからである。官公庁においては地縁とは力の源泉にほかならないためである。
地縁を重視するとエスノセントリズム(自文化中心主義)が発生し、他地域の事物を排除する姿勢を持つ。これを何世代も繰り返すことにより縮小再生産が行われ、新規事業や新しい考え方などがもたらされないという停滞をもたらす。田舎が停滞の象徴であるのは地縁にこだわりすぎているためである。
(年齢などの根拠の無い)上下関係
組織において上意下達は当然のことであるし、命令系統の明確化は有事の際の混乱を防ぐ効能も存在する。問題はこの上下関係をいかにして決めるかということである。
軍隊においては上下とは階級であり、階級とは教育の賜である(士官は士官学校という専門教育機関を卒業しないかぎりなれないのが例である) 日本においても軍隊は西洋式を取り入れているため、これにならっているがそれ以外の組織では入社、入庁年度あるいは年齢により上下を決定している。
「年を食っているものはたくさん知っている」という古来の考えはすでに意味のないものになった。(現代では「知っている」ことよりも「知る方法」を知る人間のほうがいい)
根拠の無い上下関係はその人間の実力によって立つものでなく、自動的に配点されるものである。故に意味が無い。 突然降って湧いてきた権力に人間は他人に対して横柄になれる。産まれの先後が優劣であるならば指導者は常に最高齢の人間であるべきであるがそうでない以上、今我々が持っている職位などは勝ち取ったものでなく降って湧いてきたものであるという認識を持つべきである。 根拠なき権力は無能者を作り出し、下々を滅ぼす悪鬼となる。故にバカを上にあげない組織の仕組みを作る必要があるのであるが、我々は意味のない人間を担ぐことに慣れすぎてしまった。
#最後に 縁とはいいものはまさに良縁というが、悪い縁は「しがらみ」という。
しがらみを嫌う人間は自由を求め地方を出て、別の場所に活躍の場所を求める。 思うに、栄えている地域とは「しがらみ」のない地域である。「しがらみ」のない地域は多様性を許容する。故に多様な考えや方法論を生み出し更に栄えていく。
では、栄えてない地域はどうか。「しがらみ」にしがみついているだけではなかろうか。情報は自由を求めて出口を求めるという。これからの地方活性化の手段は「しがらみ」をなくすことではなかろうか。