論ずるに値しない。

論ずるに値しない文章を毎日書く。内容は読んだ本や今まで考えてきたことがメイン。

常体と敬体

 日本の文章様式として常体と敬体が存在する。
常体とは「だ・である調」(自分の書く記事は特別な意図がない限りこの文体をとっている)
敬体とは「です・ます調」の文章のことをさす。

 超然とした、ややもすると書き捨てているような文章しか書かない自分ではあるが、やはりホットエントリーというものは気になる。ホットエントリーになった記事を読んでみると共通するものが数カ所あるが、その一つが文体である。論文調などの「カタい」文章以外は敬体で書かれているのである。

その反面、電子書籍もそうであるが書籍媒体ではまだまだ常体が主流である。この二つの文体の使用率がここまではっきりとわかれるのもなかなか珍しい。このことに注目したのが本記事の起点である。

・常体が人々にとって文語になりつつあるのではないか
 常体文がブログなどのカジュアルな文章において無意識的にも本能的にも避けられるのは常体文がかつての文語文のように捉えられているのではないかということが考えられる。
文語文とは漢文調などのけっして会話を行う時に用いられない表現を文章中に用いるもので、イメージとしてはカタい。そして難解な印象をとられがちである。
 例としては「思う」という意味合いを出すために「蓋し(けだし)」を使い、「加えて」という意味で「而して(しこうして)」を使う。現在では司法試験受験生かある程度教育を受けた高齢者しか用いない文章である。
 中学生・高校生時代に旧制高校に憧れるという痛々しい過去を持つ自分は漢詩を当時の中高生の数倍も読み、書きしていたためか文語文に対しては大きな心理的障壁は感じないが、大学受験時に文語文は読みにくい・意味がわからないという悩みを打ち明けられたことがある。常体は今となっては文語文のような印象を持っているのだろう。

・常体は読むもの、敬体は聞くもの
 観念的な話になってしまうが、常体は読むもの、敬体は聞くものとしてとらえられているのではないか。本や新聞を読むことは心理的な障壁が話を聞くよりも一段高い位置にある。常体文はこの高いハードルの中に存在しているためかやはり心理的障壁は敬体よりも高い。反面、ブログやまとめブログなどは敬体ないし会話文そのままであるため常体文と異なりあたかも会話を聞いているかのような印象を受ける。会話は何もしなくても聞こえてくる。そのため読むことよりも心理的障壁は低い。


 以上のような取捨選択をネット民、ひいては我々は無意識的に行い文章をネット上に公開する時は文体も選択しているのではなかろうか。文章は読むものから聞くものとシフトしつつあるのではないかと私は考えている。

・こだわりをもつうるさい人間としての考え
 私としては文章を書くことを意識的に行いたいし、ある程度論理的構造の上に成り立った思考・行動を取りたいと常に心がけている。そのため官公庁会計のような様々な人に知ってもらいたい・広めいたいものを除いて文章を「聞く」のではなく「読んで」もらいたい。そのため、今後も日記的なものでない限り常体文で書いて行きたいと考えている。