論ずるに値しない。

論ずるに値しない文章を毎日書く。内容は読んだ本や今まで考えてきたことがメイン。

役所はなぜ例外を許したくないのか

導入

 役所はなぜ四角四面の決まりきった対応をするのか。
割と有名なお話で「役所はカタイ。柔軟性がない」というものであるが、これには理由がある。公共性故にというわけではない。自己防衛のために柔軟性を失うのである。

前例拘束主義によるもの

 お役所と呼ばれるものは基本的に前例に拘束される。
これはいいとこともある。「考えなくていい」ことと「同じことをすれば同じ結果になる」ことである。
 働いている人間としては同じことをするときになにも考えないでいいので楽である。なれてしまえば流れ作業になるためである。言い換えれば自動化できうる仕事と言うことになるのだが、それは親方日の丸。自動化しても仕事の食いっぱぐれは採用されればない。エクセルで自動化して起案して決裁とれればあとは何にもしなくてもいい。これほど楽なことはない。
 前例拘束主義は住民側にもいいことがある。「同じ書類を出せば同じことをやってくれる」ことである。同じ書類を同じタイミングで出せば同じ結果がでると言うことはやり方がわかればこちらもなにも考えずに氏名や住所、金額を変えれば結果が降ってくる。これまた楽である。前例さえあれば。
 前例がない場合、また変な前例がある場合はその限りではない。悪法もまた法。法律に基づいてお仕事をしているお役人はどんなにおかしくても前例に拘束されるのである。

例外を許すと起こりえること

 住民に一度例外を許すと原則をすっ飛ばして例外措置を求め出す。
耳ざとい人がどこからか聞きつけて「この人にはこうしたんだからおれも同じようにやれ」と。
 この場合断ることは容易ではない。過去に一度前例があるのだから。原則を説明しても聞く耳は持ってくれない。日本人は例外扱いされるのが好きな民族なのだからそれはもう原則を説明すると怒り出す。
 つまり、一度例外を許すと原則は雲散霧消。「これっきり」という言葉も必ず「これっきり」とならない。つまり一度甘く例外を許すとそれにつけあがる人がでて後世、もしかしたら明日面倒な説明やクレームを受けざるを得ない。たまったもんではないのである。

本当のところ住民は信用できない。

 結局のところお役所は住民との口約束なんて一ミリも信用していないし、頼りにしないのである。違う住民や翌年同じ人がそれを反故にすることなんてよくあること。証拠なき約束なんて信用するほうが悪いという論調になる。文書取り交わしたほうが日数はかかるが楽なのである。
 住民との口約束なんて信用するほうが間違っている、と。徹底的に信用できない。
 なんで信用してくれないのか、という考えがあたまをもたげるかもしれないが過去の住民の行動が信用を失うに十分すぎるほどだったのである。
 行動で失った信頼や信用は行動で取り戻すしかないが、取り戻さなくても結構である。
 淡々と仕事をするんで変な横入りしないでくれよ、ともあるし決まった後に言い出してこないでくれよと思っているのであるから。
 決まる前に税金でも何でも相談したり確認したりすることは大歓迎なので疑問に思ったら聞いてくださいね、というのが役人のスタンスなのでわからないことがあればメールでも電話でも直接で向かうでもかまわないので聞いた方がいいよ。
 役所の人は根はまじめだからはなせばわかる、と思ってるんだから。

神の代理人読了

神の代理人読了

 塩野七生著「神の代理人」を読んだ。初期の氏の本なのであるが、「ローマ人の物語」でさえ主観が強いという意見のあるがこの本は主観もあるし創作もあるしでなかなかアクの強い本であったが、世界史未履修の自分としてはとっかかりとして非常におもしろい読み物であった.

神の代理人とは

 ローマ教皇のこと。ローマ教皇は神と人をつなぐ天界の鍵をもっているとされており、教皇はいわば神の代理人である、という論理からそのようにいわれている(らしい)

本書で取り上げられている時代 

 いわゆる「ルネッサンス」期の教皇でかつしくじっている三人の教皇についてかかれている。

しくじりかた三者三様

  • 自分で十字軍の総大将となるも兵員が集まらず集結予定地で志半ばで果てる
  • イタリアの統一及び外国人の干渉をとめるために兵を集めるが、結局は大国から兵隊を借りたためにさらなる混乱を招き、そのことを悟りながらも時すでに遅し
  • 文化振興のために巨額の金銭を投じるが、それがやりすぎたために財政が破綻寸前になる
    と、裏付けなく野心を抱くと成功するどころかさらなる混乱を招くだけ、というなんとも悲しい結果しかもたらさないということを描こうとしている。

善意のどうしようもなさ

 とはいえ、これらの行動も「キリスト教世界の救済」であったり「イタリア統一」であったりと「善意」から起こしたものであるからしてタチが悪い。
 「地獄への道は善意によって舗装されている」という言葉があるように社会が崩壊に向かうときは必ず身の丈に合わぬ「善意」がその発起点であることが往々にしてあることであり、それは本書に限らず歴史が証明している。
 日本ではしばしば「戦前」と「戦後」で歴史的断絶があり、「戦前」の状況下は「戦後」では現出しないと皆無意識に認識している。(例外は事故の主張を実現するためにいたずらに軍部の暴走をとりあげるときのみである)
 しかし、日本においては戦前も大衆の善意によって天皇機関説を廃棄したり、満州事変による朝鮮総督が予備兵を出兵したり、国際協調を一人の全権大使が破棄した上に連盟を独断で脱退することを決めたことを追認したりと行ってきており、現代においても実現はしないものの同様の事象が多々見受けられる。
 重要なのは「歴史」に学び、現在の状況を分析することであり、社会状況に置いて類例のない状況というものはほとんど存在しない。
 そして「善意」の暴走が破滅的な結果を起こすことは幾度も実証されている。それを我々は知らないだけだ。
 本書は「善意」からの破滅を取り上げた本であるように私は思えてならない。

夏コミでます

夏のコミケにでます

来る8月14日(日)に開かれるコミックマーケット三日目に私の所属し、さるやんごとなき方を名誉会長とするOT研究会が出展いたします。
内容は今年こそ完結、官公庁会計のしくみ(移行編)です。これまでのものと異なり、実際的な移行フローが総務省よりまとまってマニュアル化されているのでそれの要点解説となります。
すでに移行の対象となる地方公営企業の担当者におかれましては様々な移行事務を行っておられると思いますが、趣旨・必要な手続き・また、委託しているであろう資産調査のしくみや、議会への上程なども書くつもりですので、是非座右においていただければ幸いです。
そうでない方も、現在の官公庁会計はどのようになっていて、どのようなことをしているのかを知ることができますのでお手にとっていただければと思います。
また、これまでの総則と手続き編についても一部修正・加筆の上まとめたものを発行する予定ですのでこれを機会にあわせて読んでいただければ幸いです。

日曜日に 東ヘ54b OT研究会でお会いしましょう。

固定資産税家屋評価本も若干の部数がありますが、評価替えが近いので続きは今回はありません。評価替え終わったときにでるかも?

いまさら聞けない災害に関する法律について

本題の前に

 本記事を作成するにあたり、熊本地震被災されたみなさまにおかれましたは、このたびは大変な状況下におかれておりお見舞い申し上げます。
 直接的な被災地支援はなかなか行うことができず、また支援がなかなか届きにくい状況下とは思いますが被災自治体はもとより地方、政府問わず継続的な復興支援を行っていくことと思いますのでまずは失われた生活基盤を徐々にではありますが取り戻していかれますように。

災害復旧にかかる法律の射程について

 今回の震災において多くみられたのが災害復旧に関する法制に関する周知不足及びマスメディア、国会議員の理解不足また事実誤認である。以下災害発生前から災害復旧事業までの法律の射程について記述する

災害前

 災害前は防災・減災の観点から災害発生時の対処方法及び処理計画を策定するよう法律上求められている。これが災害対策基本法である。この法律において防災計画から災害発生時の警報の伝達や避難、応急措置、復旧に対する金融措置についても規定されているが、あくまで災害対策の基本法でありこの法律をもととした特別法において規定がある場合は特別法の規定が優先される。後述する法律が整備されているため、本法律においてみるべき項目は 災害発生前の基本計画等の「準備」である。
 乱暴な言い方をすれば災害対策基本法は災害前の準備について規定した法律といえる(いえません)

災害発生直後

 災害発生直後は各種社会基盤の被害状況の確認及び国民(住民)の生命及び財産を守るため被害のなく、収容人数の多い公共施設において避難所を設置し、衣食を提供する必要がある。このような災害発生直後において適用される法律が災害救助法である。
 この法律では救助の種類並びに災害の拡大を防ぐための立ち入り検査、避難所設置のための費用の負担についての国の責任などが規定されている。熊本地震においては四月十四日に本法の規定の適用が内閣府より適用することが発表されている。
http://www.bousai.go.jp/taisaku/kyuujo/kyuujo_tekiyou.html

災害復旧期

 災害の発生から一定期間経過し、収束がみられた場合被害を受けた社会基盤並びに公共施設を復旧するための事業が開始される(いわゆる災害復旧事業)。
 輸送体制の復旧のために道路については選考して着手されることが多いが、決壊した堤防、破損した学校や病院などを現状復帰させるまた現状のままでは災害を防げないと認められる場合は改良事業を行う。
 この際の事業については災害復旧事業債の起債が認められ市町村が起債することとされるが政府保証が黙示的になされている(起債前の事前協議があるため)ことはもちろん、後に交付税措置がなされる。
 しかし、災害復旧事業においては国においても財源が限りあること、他地域においても災害がありその復旧の必要性があることから枠が決められている。   この総枠を著しい被害を受けたため大きくするという趣旨において「激甚災害」の指定がなされると、激甚災害に対処するための特別の財政援助等に関する法律に基づき枠をかさ上げされる。
 激甚災害の指定においては激甚災害指定基準に基づいて、各分野ごとに被害状況の査定を行い、被害額が基準を越えた場合閣議にまわされ、閣議決定を経ることにより激甚災害の指定がなされることとなっている。
http://www.bousai.go.jp/taisaku/gekijinhukko/pdf/index_01.pdf
 つまり、激甚災害の指定は市町村・都道府県の被害状況調査を行った上で、各省庁が査定を行った上で行わない限り行うことはない。
 一見するとなにを悠長な、と思われるかもしれないが本法の趣旨は「災害復興」であるため、被害総額の算定及び必要な箇所のスクリーニングがなされていることが大前提なのである(財政措置の必要性もある)
熊本地震においては指定までの標準処理期間を大幅に短縮された四月二十五日に指定されており、異例といえよう。 (近年は指定を早くする傾向がみられるが、それは大規模災害が頻発しているからといえるだろうが定かではない。)

射程

  • 発生前 災害対策基本法
  • 発生中 災害救助法
  • 大震災復興に向けて 激甚災害に対処するための特別の財政援助等に関する法律
    となっており、盛んに論じられている「激甚災害の指定が遅い」というのは失当といえるだろう。むしろ早いぐらいであり、平成23年の即日指定のほうがプロセスをとばしておりおかしいのである。
     この査定がどんぶり勘定すぎると復興に要する費用が大きく計上され、交付税措置を行うための財源がないためにあたらしく財源をもうけるか何かの税率を上げる必要がしょうじ、国民に必要のない負担になるおそれがある。
     復興特別所得税などはその一例といえるのではなかろうか。所得税被災地住民においても当然に課税される以上、被災地住民が被災地復興のために生活のために稼いだカネをむしりとられる(サラリーマンの場合は源泉徴収のためほぼ確実にむしろとられる)ため避けたいところである。
     また、今回の地震においては補正予算を編成した上で財源確保を行っていることを申し添えたい。
     以上のことを長々と書いたが当然間違いもあると思われるため、鵜呑みにせず条文や内閣府のサイトなどを熟読されたい。
     心情面の支援については専門外であるため記述することは控えたい。

これからのエリックホーファーのために 読了

 これからのエリック・ホーファーのために 読了

 Twitterにて感想文があがっていておもしろそうだと思ったので購入。
読んだところ今の自分にピッタリ合う内容であった。

 どんな本なのか

 日本の大学に残らず(残ることができずに)独力で研究を続けた人の研究のやり方、成果を紹介し、そこから草の根研究を続ける人はどのように研究を進めていけばいいのかという教訓を得る、という内容。
理系の研究よりも文系の文献研究やフィールドワークが中心。

 文系の研究や在野でもできるのが強み

 文系で研究職というのはある意味キャリアの墓場である。 (近年は法律学科のみならず文学部や経営系の学部でも実務家教員が増えている)
そのため、確たる覚悟もやりたい分野もない人間は別の職を得て研究をする必要がある。
この流れは当分続く以上、なにか特別な勉強をしたい人間は在野で腕を磨く必要があるしそれができるのが魅力である。

 この本の最大の魅力

 それはインターネットや個人メディアのない時代に独力で研究を続け、 成果を出している人間が「日本にも」こんなにたくさんいるという事実である。 そして現在は成果をネットで発表し続ければいつかはフックアップされる、という状況も見られるようになり非常にやりやすい環境になった。 それを気づかせてくれるのがこの本の最大の魅力ではあるが、残念なことにそのような奇特なことをする人間は非常に少ない。 そのためこの本の魅力が伝わる間口は非常に狭いのが残念なところである。 もちろん、こんな人がいたんだ、という人物アルバムとしてみることもできるがそこまでやるなら宮本常一とかをまず読むべきだろうし、やはり良さがわかる人も、おもしろいと思う人も少ない本であるというのが一般的な意見だろう。
 しかし、私のような勉強できる、師事できる先生もいないような分野でかつ「どの研究科もない」ような分野を研究している人間にとっては非常に勇気づけられる本であることは間違いない。
 いわゆる独立研究者にとっては志を見失うときも当然ある。そのときに読み返すべき第一の本といえるほど重要な本であることは間違いない。
 すくなくとも私はここ五年でもっとも買ってよかったと思える本の一つであった。  

     

これからのエリック・ホッファーのために: 在野研究者の生と心得

これからのエリック・ホッファーのために: 在野研究者の生と心得

単語でしか話せない日本人

単語でしか話せない日本人

 客商売をやっていると常々思うのが「単語」でしか話せない日本人の多さである。
 単語でしか話せないというのはなにかものを買おうとして「これ」としか言わないとかそういうことである。(売買の場ではそもそも一言も発しない人もかなりいる)
 君たちさ、何のために口がついているんだね、という気持ちを抱かざるを得ない。そもそも人間なんてなにを考えているのかわからないんだから、「察する」ことを要求するのは大間違いである。口に出さなければなにもわからないし、自分の思い通りにならない。

接客する側は意図の通りであるかどうかを聞かざるを得ない

 察してほしいのはわかるが、接客する側はしっかりと察することができたかを確認する必要がある。つまり「お会計でいいのか」とかそういうことである。
 会計ならまだいいが、なにかの申請書類をほしいのか、書き方がわからないのかまでは察することはできない。説明しようとすると「それぐらいわかる」と言う人もいる。応対する側は初対面の君の知識量なんて知らないんだから、口に出してくれよ。
 おもてなしおもてなしというが客を甘やかすと客自身が得をしないことが多い。まず、意志の疎通を図るために無駄な時間を費やすことになる。
 単語で話している人間がバカ何じゃないかと思われる。つまり、日本語をしゃべることができるのかを疑う。これは外人にはみられないことである。「これがしたい」「あれがしたい」ということは口に出さないと始まらない。
 コミュニケーション能力とはそういうところで出てくるんだなあと思うのである。
 ONLY IN JAPANですね。ほんと。ばからしい。

背教者ユリアヌス 読了

やっと読めた本

 実は背教者ユリアヌス、高校時代から読みたいと思っていて機会がなく読めていなかった本なのである。
今回ついに機会を得たので読むことができた。

最後の異教徒皇帝、ユリアヌス

 古代ローマは古くはギリシアの神々を信仰する国であった。ゼウスとかのあれである。
 しかし、時代が下るにつれキリスト教の誕生、そして爆発的な普及、国教へと変容していくことになる。そもそもローマ皇帝とは複数の公職を兼ねた人の総称である。(執政官、最高神祇官護民官、軍最高司令官など)キリスト教の国教採用、及びキリスト教との皇帝が誕生することにより徐々に古代からの伝統が破棄されていく。
 そのなかでギリシア・ローマの神々を信仰し、ギリシア哲学に傾倒していたのがユリアヌスなのである。もともとキリスト教徒が突如変心したというわけではない。
 異教徒皇帝といわれるようになった現実がまた古代ローマの終焉が近く感じられ悲しく思えるのである。

感想

 ユリアヌスをよく書いた本というより初期キリスト教の振る舞いを悪し様に書いた本という感想。
 だからといってよくないというよりも、ユリアヌスをここまで詳しく書いた小説もほぼほぼ類書がないし、同時代を題材にした本もほぼほぼないことを考えると読む価値はあったといえる。
 寛容さを良しとした古きよきローマ帝国が好きな人はそれを取り戻すための最後のあがきを読めることの幸せをかみしめるべきだろう。

背教者ユリアヌス (上) (中公文庫)

背教者ユリアヌス (上) (中公文庫)

背教者ユリアヌス (中) (中公文庫)

背教者ユリアヌス (中) (中公文庫)

背教者ユリアヌス (下) (中公文庫)

背教者ユリアヌス (下) (中公文庫)