読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

論ずるに値しない。

論ずるに値しない文章を毎日書く。内容は読んだ本や今まで考えてきたことがメイン。

関東の水,関西の水


折からの低気圧と高湿度で腰と肩を痛め,座ることすらキツイようなザマであるので,書くもの書けず,
やるものもやれずという状況が続いている。そんななかで二泊三日の関西旅行に行ってきたんだから
そのあとの反動というものもある。寝ていても腰が痛いし,背中が痛い。そういう心持ちで今週は生きてきた。
十代まで,生まれ育った千葉県とは別に長期休暇ごとに,もしかしたらそうでもなくても田舎に帰らされてきた。
田舎といっても大都会岡山の海向こうの,讃岐は高松という鳥なき島の蝙蝠的な都会である。この讃岐というところは
非常に面白く,東はエセ関西弁(東讃弁),西はエセ広島弁(西讃弁)を話し,いまだに万葉集の時代の発音などものこるという
くにである。うどんのだしは関西の薄いもので,雑煮の餅は丸もち(ただしあんこ入り)と食も関西圏・話し方も関西圏という環境の中で
関東生まれのわたしは12分の3ぐらいは生活させられてきた。(なので,いまだにふとした時に訛る,方言が出るなどの後遺症もある)

# そちらの水は甘いか
そのような幼少期・思春期を過ごしたからか,関西・四国圏には愛着と忸怩たるおもいをコンクリートミキサーにぶちまけたような感情を
もって生きてきているが,久しぶりの関西は「小さくなった」ように感じた。あれだけ感動した平等院も小さく感じれば,鴨川も小さく感じるし,
食い物も薄味というか味もしないと思うように,愛情をもっていたものが全て小さくなったように感じた。端的に言うと水が合わなかった。(旅行自体は楽しかったのだが,
関西の空気にノれなかった)
年をとればとるほど鈍感になるというのは誰かがいったのは間違いないのだが,あんなに好きだったものがしばらくみないうちに何も感じなくなるのは
はじめての経験で戸惑った。
十年いかねえだけで,あんなに変わるもんかねえ。変わったとしたら自分だし,学生のときの関東関西の差も仕事始めたら差が出ない。
今となっては西の水はすっかり自分には合わなくなってしまったよ。こういう主観的なものはやはり他人とは分かち合えるものではないし,
わかってもらおうなんていう気持ちもない。ただ,これがあまりかかわりない土地だったからなのか,十年以上帰ってない讃岐でも同じことになるのか
を考えると怖い。おれは根っからの関東人ではなく,うどんと関東のハーフでいたいのだ。