論ずるに値しない。

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無謬性という共同幻想

 無謬とはあやまりのないことを指す語であるが,巷ではこれに「性」をつけて「無謬性」と呼ぶことが多いらしい。

この場合の無謬性とセットで語られるのは公務員である。公務員の無謬性,つまり原義では公務員のやることに間違いはないということである。

この語義であれば公務員としての仕事は誤りがないように努めるべきであるという意味合いにもとれるため問題はないように思われる。

 しかし,現在においてこの無謬性という言葉は拡大解釈されるようになってきている。曰く「誤りを認めてはならない」「責任を取らなくてもよい」

という風にである。このような語義で用いることが容認された社会においては公務員としても本意ではない。つまり無謬性を「要求」される現状も存在するのである。

直近の例だと避難勧告を出しても空振りになることを恐れて行わなかったというものがある。このような内圧,外圧はどこから来るのだろうか。

 思うに,無謬性とは市民と官僚の共同幻想である。無謬性を要求するのではなくプロフェッショナルとしての矜持がこの無謬性をもたらし,

市民は数百年も続くお上への崇拝にも近い信頼がこの幻想を現出させているのである。

 働いている人間も人間であるため無謬などということはありえない。それを目指すことはできるが無謬を求めることもまたありえない要求であることを認識するべきであろう。