論ずるに値しない。

論ずるに値しない文章を毎日書く。内容は読んだ本や今まで考えてきたことがメイン。

母の育児と介護ネグレクト

 自分の祖父はついにがんに侵され、最後のときを少しでも伸ばすがためにがんばっている。時にはいやな入院をしてまで自らの細胞の増殖を抑え、
より長い間普段どおりの生活を送れるように努力をしている。
 そんな祖父のサポートについに自分の母親は疲れたという。原因は「自分のいうことを聞かない」からである。介護とは報われない。家族だけで無理にこなそうとすると誰かにそのしわ寄せが来る。不運なことに母にとってはそのしわ寄せがきたのだろうか。

・介護と育児
 介護と育児は似ている。ままならない肉親を支えること、奉仕的な意味合いが強いことがあげられる。しかし、介護が育児と決定的に異なることは被介護者は自我を持っていることだ。自我を持っている以上そこには己の希望や処遇をどのようにしてほしいかというのが提示される。母親は幼稚園教諭という育児のプロであるがためにこれを見誤ったのだ。介護は一方通行ではない。お互いの折り合いをつけていくものなのだ。
 意外と知られていないが、介護にも当然ネグレクト(放棄)が存在する。金銭の余裕があるものは体よく有料老人ホームへ被介護者を押し込める。
しかし、我が家にはそのつもりもない。そしてボケても身体の不自由も今のところ存在しない。そうなると今まで楽なほうに、自分の思うとおりに家庭で振舞ってきた母やそのほかのものは「好きにしろ」と言い放ってネグレクトをするのだ。

・親の義務、子の義務
 親は子供を生んだ瞬間法律上養育の義務を負う。この義務を果たしたら当然に親は子供に何かしらのバックを養育するのが人情というものだろう。
子供はどのような義務を負うのか。子供はこれまでの養育の恩を返す-つまり介護を要求するのだろう。
 思うに、子供の義務は親の死ぬときの尻拭いをするために生かされてきたのではない。養育の義務は養育した人間に対してその恩を返すのではなく次の世代にその恩を「送る」のだ。次はよりよい人生を、よりよい経験をしてもらうためにこれまでの経験を子供に託す。これが連綿とつながってきた人間の歴史なのである。

・親が子供に求めること
 託すだけでは育てた甲斐が無い。そういう人間がいるのも確かだろう。だが考えてみてほしい。子供を一人前に育て上げ、社会人になるまでにかかる費用は数千万かかる。それに加えて育てるのに失敗して定職につかない人間もいるし、先立たれるというリスクも存在する。そういうリスクがあるのならその金額で介護してくれる人を雇ったほうがましだろう。見返りを求めるために二十年近く子供を育てるのは割に合わない。以上のことから自分のために子供をつくるべきではないのだ。
 では、子供に親が求めることは何なのだろうか。それは自分のなしえなかったことをやってもらうために育てるのだろう。もちろんこれも親のエゴである。
しかし、それを達成するために生きるということは過度な押し付けが無い限りお互いにとってかけがえの無い経験になると思う。

・書いた動機、気に食わなかったこと
 母親は祖父の介護をさほどやっていないのに「疲れた」や「早退してまで面倒見ているのに自分のいうことを聞かないのはむかつく」という理由でネグレクトするんじゃない。ということに尽きる。そもそも自分の子供すら育てられていないのに介護なんて出来るわけ無いだろう。途中で投げ出すくらいなら最初からしないでくれ。迷惑だ。

母や祖母は嫌いだったがもう論ずるに値しない。軽蔑します。

以上