明るい未来はどこに行ったのか
・来なかった世紀末
平沢進さんの自伝的書籍に「来なかった世紀末」という本がある。彼は独創的なテクノマエストロでありながらすぐれたコピーライターであるようだ。「来なかった世紀末」とは「未来への共通認識」が失われたことと「過去の未来への共通認識」が現在と違っていることを指していることだと思う。
・未来への共通認識=未来への希望
未来はこうなる!ということを特集した過去の雑誌はまちにチューブカーが走り、テレビ電話が当たり前に使うようになり、携帯電話が一人一台所有し、ロボットの友達ができる、というものだった。一部実現したものはあるが、実現したものは数少ない。しかし、これまでは未来は明るいものであるという論調が多数を占めていた。未来とは希望の言い換え語でもあったのだ。
・夢のない未来
今の未来にはまったく希望が見えない。
これは不景気も一因であると思うが一番は世の中に閉塞感が漂ってきたのだ。そのなかで未来に夢を見ろと若者に求めるのは酷だろう。若者がおとなしくなっただの夢がないだの言うのは筋違いで、環境がそうさせたと言うべきだろう。批判をするなら社会の担い手たる社会人の責任だ。自己批判できない現場もまた閉塞感を生んでいる。
・最後のフロンティアだったコンピュータ
かつてマイコンと呼ばれ、いずれ一家に一台以上普及するとは考えられなかったとき、未来は確かにコンピュータに存在したが、普及しきった現在、未来はコンピュータにはない。インターネットも国内では普及しきって楽天やソフトバンクのような巨大規模の企業に成長できうる可能性もほぼなくなっている。もはやインターネットにすら未来をみることはなくなってしまった。
我々はもう来なかった世紀末を語るのではなく今ある未来に目を向けなければならないのではなかろうか。