論ずるに値しない。

論ずるに値しない文章を毎日書く。内容は読んだ本や今まで考えてきたことがメイン。

これからのエリックホーファーのために 読了

 これからのエリック・ホーファーのために 読了

 Twitterにて感想文があがっていておもしろそうだと思ったので購入。
読んだところ今の自分にピッタリ合う内容であった。

 どんな本なのか

 日本の大学に残らず(残ることができずに)独力で研究を続けた人の研究のやり方、成果を紹介し、そこから草の根研究を続ける人はどのように研究を進めていけばいいのかという教訓を得る、という内容。
理系の研究よりも文系の文献研究やフィールドワークが中心。

 文系の研究や在野でもできるのが強み

 文系で研究職というのはある意味キャリアの墓場である。 (近年は法律学科のみならず文学部や経営系の学部でも実務家教員が増えている)
そのため、確たる覚悟もやりたい分野もない人間は別の職を得て研究をする必要がある。
この流れは当分続く以上、なにか特別な勉強をしたい人間は在野で腕を磨く必要があるしそれができるのが魅力である。

 この本の最大の魅力

 それはインターネットや個人メディアのない時代に独力で研究を続け、 成果を出している人間が「日本にも」こんなにたくさんいるという事実である。 そして現在は成果をネットで発表し続ければいつかはフックアップされる、という状況も見られるようになり非常にやりやすい環境になった。 それを気づかせてくれるのがこの本の最大の魅力ではあるが、残念なことにそのような奇特なことをする人間は非常に少ない。 そのためこの本の魅力が伝わる間口は非常に狭いのが残念なところである。 もちろん、こんな人がいたんだ、という人物アルバムとしてみることもできるがそこまでやるなら宮本常一とかをまず読むべきだろうし、やはり良さがわかる人も、おもしろいと思う人も少ない本であるというのが一般的な意見だろう。
 しかし、私のような勉強できる、師事できる先生もいないような分野でかつ「どの研究科もない」ような分野を研究している人間にとっては非常に勇気づけられる本であることは間違いない。
 いわゆる独立研究者にとっては志を見失うときも当然ある。そのときに読み返すべき第一の本といえるほど重要な本であることは間違いない。
 すくなくとも私はここ五年でもっとも買ってよかったと思える本の一つであった。  

     

これからのエリック・ホッファーのために: 在野研究者の生と心得

これからのエリック・ホッファーのために: 在野研究者の生と心得

単語でしか話せない日本人

単語でしか話せない日本人

 客商売をやっていると常々思うのが「単語」でしか話せない日本人の多さである。
 単語でしか話せないというのはなにかものを買おうとして「これ」としか言わないとかそういうことである。(売買の場ではそもそも一言も発しない人もかなりいる)
 君たちさ、何のために口がついているんだね、という気持ちを抱かざるを得ない。そもそも人間なんてなにを考えているのかわからないんだから、「察する」ことを要求するのは大間違いである。口に出さなければなにもわからないし、自分の思い通りにならない。

接客する側は意図の通りであるかどうかを聞かざるを得ない

 察してほしいのはわかるが、接客する側はしっかりと察することができたかを確認する必要がある。つまり「お会計でいいのか」とかそういうことである。
 会計ならまだいいが、なにかの申請書類をほしいのか、書き方がわからないのかまでは察することはできない。説明しようとすると「それぐらいわかる」と言う人もいる。応対する側は初対面の君の知識量なんて知らないんだから、口に出してくれよ。
 おもてなしおもてなしというが客を甘やかすと客自身が得をしないことが多い。まず、意志の疎通を図るために無駄な時間を費やすことになる。
 単語で話している人間がバカ何じゃないかと思われる。つまり、日本語をしゃべることができるのかを疑う。これは外人にはみられないことである。「これがしたい」「あれがしたい」ということは口に出さないと始まらない。
 コミュニケーション能力とはそういうところで出てくるんだなあと思うのである。
 ONLY IN JAPANですね。ほんと。ばからしい。

背教者ユリアヌス 読了

やっと読めた本

 実は背教者ユリアヌス、高校時代から読みたいと思っていて機会がなく読めていなかった本なのである。
今回ついに機会を得たので読むことができた。

最後の異教徒皇帝、ユリアヌス

 古代ローマは古くはギリシアの神々を信仰する国であった。ゼウスとかのあれである。
 しかし、時代が下るにつれキリスト教の誕生、そして爆発的な普及、国教へと変容していくことになる。そもそもローマ皇帝とは複数の公職を兼ねた人の総称である。(執政官、最高神祇官護民官、軍最高司令官など)キリスト教の国教採用、及びキリスト教との皇帝が誕生することにより徐々に古代からの伝統が破棄されていく。
 そのなかでギリシア・ローマの神々を信仰し、ギリシア哲学に傾倒していたのがユリアヌスなのである。もともとキリスト教徒が突如変心したというわけではない。
 異教徒皇帝といわれるようになった現実がまた古代ローマの終焉が近く感じられ悲しく思えるのである。

感想

 ユリアヌスをよく書いた本というより初期キリスト教の振る舞いを悪し様に書いた本という感想。
 だからといってよくないというよりも、ユリアヌスをここまで詳しく書いた小説もほぼほぼ類書がないし、同時代を題材にした本もほぼほぼないことを考えると読む価値はあったといえる。
 寛容さを良しとした古きよきローマ帝国が好きな人はそれを取り戻すための最後のあがきを読めることの幸せをかみしめるべきだろう。

背教者ユリアヌス (上) (中公文庫)

背教者ユリアヌス (上) (中公文庫)

背教者ユリアヌス (中) (中公文庫)

背教者ユリアヌス (中) (中公文庫)

背教者ユリアヌス (下) (中公文庫)

背教者ユリアヌス (下) (中公文庫)

我々をしばる3つの縄   

  不思議なもので、我々日本人は自分でこしらえた縄でもって自分を縛るのがすきなようだ。    地方において職務を遂行するにあたり常に感じるのは自作自演の多さである。  

 今回はその3つの縄について考えたいと思う。  

血縁

 まず第一の縄は生まれた時から死ぬ時まで切れない縄である親子の縁、親類の縁である「血縁」である。

    血縁とは「(親子、兄弟など)血のつながりがある関係。血筋のことをいう。」

 日本においては血筋というものは非常に重要視され、「誰それの親類、子孫」という釣り書はまず真っ先のその人を知るための指標とされる。     血筋とは本人の思う通りにならない生まれ持った資産でもあるし負債でもある。

 それにゆえに損も得もする。だから「自分はそうすまい」と思っても血筋であったり血を分けた他人に対して甘い目で見てしまうのである。  

 これが血縁関係の内側で行われているのならば構わないのだが、そうはならないのが日本人の悲しい性である。   

地縁

 地方に根ざした産業、企業ほど地縁により辛酸も恩恵も受けているのはあるまい。

 地縁とはまさに「何代前からここに住んでいる」という類の自己ではなく父母やそのまた父母の妥協の産物の他ならない。「どこそこ出身だから仲間」という意識はまずまっさきに棄てなければならないものであるが、そうはいかない。     なぜなら官公庁においては「地方へカネを落とす」ことも大きな仕事の一つだからである。官公庁においては地縁とは力の源泉にほかならないためである。  

  地縁を重視するとエスノセントリズム(自文化中心主義)が発生し、他地域の事物を排除する姿勢を持つ。これを何世代も繰り返すことにより縮小再生産が行われ、新規事業や新しい考え方などがもたらされないという停滞をもたらす。田舎が停滞の象徴であるのは地縁にこだわりすぎているためである。

(年齢などの根拠の無い)上下関係  

 組織において上意下達は当然のことであるし、命令系統の明確化は有事の際の混乱を防ぐ効能も存在する。問題はこの上下関係をいかにして決めるかということである。  

 軍隊においては上下とは階級であり、階級とは教育の賜である(士官は士官学校という専門教育機関を卒業しないかぎりなれないのが例である)     日本においても軍隊は西洋式を取り入れているため、これにならっているがそれ以外の組織では入社、入庁年度あるいは年齢により上下を決定している。

 「年を食っているものはたくさん知っている」という古来の考えはすでに意味のないものになった。(現代では「知っている」ことよりも「知る方法」を知る人間のほうがいい)  

  根拠の無い上下関係はその人間の実力によって立つものでなく、自動的に配点されるものである。故に意味が無い。 突然降って湧いてきた権力に人間は他人に対して横柄になれる。産まれの先後が優劣であるならば指導者は常に最高齢の人間であるべきであるがそうでない以上、今我々が持っている職位などは勝ち取ったものでなく降って湧いてきたものであるという認識を持つべきである。      根拠なき権力は無能者を作り出し、下々を滅ぼす悪鬼となる。故にバカを上にあげない組織の仕組みを作る必要があるのであるが、我々は意味のない人間を担ぐことに慣れすぎてしまった。  

 #最後に   縁とはいいものはまさに良縁というが、悪い縁は「しがらみ」という。

  しがらみを嫌う人間は自由を求め地方を出て、別の場所に活躍の場所を求める。      思うに、栄えている地域とは「しがらみ」のない地域である。「しがらみ」のない地域は多様性を許容する。故に多様な考えや方法論を生み出し更に栄えていく。  

  では、栄えてない地域はどうか。「しがらみ」にしがみついているだけではなかろうか。情報は自由を求めて出口を求めるという。これからの地方活性化の手段は「しがらみ」をなくすことではなかろうか。

コミケ89に出展します。

宣伝ブログめいてはいるが

 コミケ89に出ます(本当は88にも出たかったがあえなく落選) .
OT会長を名誉会長にいただくOT研究会は誰も書きそうにないことをあえて記事することにより
自由な言論を確保しようとする趣旨などは全くなく己の趣味なんだけど発露する場所がないために各々好き勝手に書きなぐっているサークルです。
わたくし(@wakasa_nadaこと玄田牛一)前部署においてはなかなか理解されにくく、業界外の方には驚きをもって迎えられる官公庁会計のしくみについて書いてまいりました。(概論、手続き二冊五十ページほど)

今回の刊行予定物

・これまで書いてまいりました官公庁会計のしくみ二編と情報公開制度を用いた情報開示の方法を記した小品(既刊、既発表済をまとめたもの)

・固定資産税における木造家屋の評価のポイント(新作)(固定資産税評価において評価補助員はどのようなポイントで見ているか、どのように評価しているかをまとめたもの)

・化石写真集(OT研究会員の作品)   

を予定しています。

発行形態

 例によってA4コピー本の予定。コピー本ですが中綴じですので職場の資料としてもご活用いただけるはずです。

コミケ89は大晦日に開催です。年忘れ、固定資産税賦課期日前日に固定資産税についての本を買うというのも一興だと思いますのでよろしくお願いします。
完売したら次は軽量鉄骨、共同住宅編に移りますのでよろしくお願いします。

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写真はサークルカット短冊

「知的複眼思考法」読了

 あまたの類書がある中でこれがすごいというものははっきり言ってなかった。
こういう「考える」ことについて書かれた本は「考える技術・書く技術」が抜きんでていて
他の本は縮小再生産されたものというイメージがあるが,それは間違いではないだろう。
 類書が多いジャンルにおいて95年に書かれたということ以外はすごさはない。
つまり,ほか類書を読んでいたのならば読む必要はないように思う。
 

 

知的複眼思考法 誰でも持っている創造力のスイッチ (講談社+α文庫)

知的複眼思考法 誰でも持っている創造力のスイッチ (講談社+α文庫)

 

 

ごあいさつ

# もう一度「書く」という訓練を始めたい

 うつ病からもようやく立ち直り、仕事場での成果も着々上げつつある最近ではあるが、楽しいことを覚えると忘れてしまうのが文章作法としゃべりの技術である。

私も日々調査に際して図面は書くが喋らず、文章を書かずに生活してきており、日々のアウトプットができていないことを様々な出来事から痛感してきているところである。

 そのため、もう一度うつに寄り添っていた時のように「業績のない自分」をなくすための試みをしたいと思うようになった。具体的にはまたブログを書き続けること。多忙な日々は充足感は得ることができるが後年になって何を得たのかは思い出すことは難しい。

 充足感ジャンキーになることは簡単であるが、自分の行いを振り返ることは実は意義深いことであり、今後の自分の指針にもなりうる。自己の活動記録というよりほかない。

 故に浅学非才の身なれど、改めて私の読書感想文や時事に対する意見を文章にすることで皆様の様々な議論の補強や余暇の過ごし方の一助となれば幸いである。